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Yカフェの話

YWCAのカフェを利用することがある。
YWCAというと知ってのとおり女子のキリスト教系の団体だ。店はその建屋の奥にある。
初めてカフェに入るときにはかなり躊躇したが、その店が女性専用というわけではない。
記者は街歩きをしていて商売っ気の感じない店をみつけると入らずにはいられないのだ。なにか、そこにはそこだけの時間が流れているようで、その扉を開けると別世界に誘われるような期待を持ってしまうのだ。とりわけ、自分の生き方に疑問を感じているときには・・・

記者は三摩地の名が示すとおり在家受戒までした仏教徒なのである。
とは言え、かつてカトリックの施設で働いていたことがある。毎朝、お祈りと聖歌斉唱を義務付けられたことにはわずかな抵抗はあったが、歌による伝導とか神との対話とかを考える良い機会ではあった。
歌をつくり、歌い、あるいは“語り”という方法で人が織りなす泣き笑いを伝える。善と悪とを行ったり来たりの人間の業を表現したいとして活動してきたが、伝えきれないで力不足を思うことが、ままある。

自分とは無縁の世界を覗いてみたいと思う。発見の宝庫なのだから。
カフェの扉を開ける。
静かな空間がひろがっている。
しばしここで温かいココアで憩う。

この店では毎週水曜日にはランチを用意しているという。
第1と第3の週はグリーン・カレーを、第2.と第4の週はハッシュ・ド・ビーフを出す。
ハヤシライスには特別の思いがあって、かつてブログのどこかに書いたと思う。あるいは書いていないかも。いずれにしても、いくつかのエピソードがあって、そのうちの一つは『お気に入りの店』としてミステリーに仕立てて語りのネタにしている。
それで、そこのハッシュ・ド・ビーフなのだが・・・

慈善団体の出すハッシュ・ド・ビーフなんてたかが知れていると軽く踏んでたら足をすくわれた。
これは旨い!
食べ終わるのが惜しいので、自然と匙の運びがゆるやかになる。
お見それしました!

まさに「おみそれ」なのだ。
ハッシュ・ド・ビーフに一言あるほどに、分かっているつもりで分かってなかったということ。それはつまり、ハッシュ・ド・ビーフに限らず、記者は分かってないことだらけであったということなのだ。
往々にして記者が他者に理解されないのは、記者が他者を理解していないことに起因しているからかもしれず、そのこと自体を発見していないから迷い悩むのかもしれない。
謙虚さというものは、そうゆうときに物を言う。
知らないことを発見し、なお知らないでいることを受け入れる。
知られないことを発見し、なお知られないでいることを受け入れる。
そういえば、『お気に入りの店』も実体験から作った話だが、謎の多い店で、もう10年そこへは通ってないけど、今でもその謎は探ってはいけないものと思っている。
世の中には“知る喜び”と同じくらい“知らずに済ませる喜び”がある。

そのYWCAのカフェがどこにあるのか、なんという名前なのかをここに記すつもりはない。
調べれば分かることであり、記者と同じように誰かが偶然その店と出会うことが大切だと思うから。
なにより、そこは記者にとって隠れ家なので、お客がわんさと寄せても困るのだ。
“知らせない喜び”というのもある。


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誰が誰を振り返る?

柴又駅前に‟寅さんを見送るさくらの像”が設置された。これで寅さんとさくらが対になったのだが、こちらの思いは複雑だ。

寅さんの像は、柴又を去ろうとして振り返った状況をモチーフにしている。視線の先には名残惜しい故郷がある。故郷の象徴がさくらであることは間違いない。
だが。
少し距離を置いて寅さんの像を私たちが見るとき、寅さんは明らかにそれを見る者に訴えかけるのだ。
「ふるさとってのはよう・・・ふるさとってのは・・・」
さくらに訴える寅次郎。次の言葉を遮るように電車のドアが閉まる。第6作『奮闘編』の名場面を思い出す(ジャン・ギャバン主演『望郷』へのオマージュであろう)。
寅さんの像を見る者は皆さくらの立場に立っていた。今後はそれができない。“寅さんとさくら”を傍観するしかないのだ。それは柴又を身近なものから他所の土地にしてしまったのではあるまいか。もはや観光客は柴又を自分の故郷として感じることはあるまい。
だが記者は言おう。
寅さんに振り返られる者がはたしてさくらの立場なのかを。
映画を観て私たちは寅さんを笑う。
かつて記者は言ったと思う。本当に笑われているのは寅さんを嘲う私たちなのだと。
おいちゃん・おばちゃん、御前さま、みな寅さんに気をかけながら、それでも寅さんを理解しきれていない。私たちも同じではあるまいか。そばにいて楽しいけれど、ずっと居られると鬱陶しい。これは自分に都合のいい付き合い方であって、そこに親愛の情はない。
敢えて良識を疑われることを言おうか。
「ご理解、ご協力をお願いします」という文句がある。なんらかに問題のある人がいて、人権的・福祉的な観点で対象者をとらえるとき、記者は理解と協力にやぶさかではない。
但シ、身近ニハ居テ欲シクナイ。

「障害者」の害というイメージが悪いというので平仮名で「障がい者」と表記することが多くなったが、悪いイメージを持つ心こそが害なのは言うまでもない。誰かが困っていることに気づかないでいることが害なのだ
或いは、困っている人の立場に立ってものを思い行動することの難しさ。その一筋縄では行かぬ矛盾を受け入れられないでいることを害というのではあるまいか。そうした害は悲しみでありながら、また、愛おしさでもある。
よその人ならいざ知らず、実の親を介護するのは気が引ける子。
或いは「何でこんなふうに生まれついてしまったのか」とわが子の行く末に嘆く親。
愛情と嫌悪、希望と不安。
寅さんは思いやりも冷たい仕打ちもすべて飲み込んで故郷を振り返る。
寅さんの視線の先にあるのは私たちなのだ。
私たちはさくらの像の前に立って寅さんの眼差しを受ける勇気があるだろうか。
寅さんの像もまた私たち自身なのだ。


『日本の青春』覚書

小林正樹監督作『日本の青春』を観た。
発見、発見、また発見の傑作だ。

発見;その1
主役の藤田まことは製作された昭和43年の時点で‟中村主水”のキャラができている。
主人公は40代半ばの初老の事なかれ主義者で、家に帰ると女房に疎まれ小言に耐えるだけのしょぼくれ親父なのだ。だが息子が進路に行き詰まり防衛大も考慮に入れているときくと頑固に反対する。この二面性は!

発見;その2
奈良岡朋子の擦れた妻の演技と風貌が中嶋朋子そっくり!
いや、中嶋朋子が奈良岡朋子に似せてきているのかもしれない。『北の国から』で不倫をする蛍役からそっちのキャラになってきていたっけ・・・

発見;その3
防衛大の教官役に菅貫太郎が!
スマートでカッコいいんだな、これが。
『異邦人の河』(1975)での在日朝鮮人役も素晴らしかったが、この人『十三人の刺客』の残虐非道のバカ殿の演技が受けて時代劇でそっちのキャラを演じさせられすぎた。惜しい。しかも六十そこそこでバイクにはねられて死んでしまって、これまた惜しい。

発見;その4
三島雅夫がナレーション
これまた珍しい。東映の時代劇のイメージが鮮烈だが役どころは広い。『ゆうれい船』では50歳にして13歳くらいの孤児を演じていた!こうした強引な配役をやってのけたればこそ当時の映画産業は元気だったのだ。つじつま合わせをしていたら創作意欲が鈍する。
そう、そう、ナレーションの件だが、鬱陶しくて、要らないね。 それでもナレーションを入れたのは小林正樹がよほど訴えたかったのだろう。この小市民の生活こそが一歩も譲れない戦いなのだと。


主人公は聴覚に障害がある。なぜだろう?
映画は過去を語る。この男にも青春があった。そして戦争に取られる。そこで耳を悪くしたのだろうか?
応召前夜、男は空襲を利用して自己消滅を謀ると恋人に告げる。
現代。未亡人になった恋人に再会して恋心が再燃する男。その女に言い寄る武器商人は、軍隊でひどい制裁を加え男の耳を潰した上官だ。
おや? 徴兵忌避の計画はどうなったんだ?

ラスト近くでこの謎と、物語のテーマが明かされる。このくだり、ミステリードラマのよう。

男は女と逃避行を謀る。
だが出来ない。あの時と同じように。
「自分だけが逃げるわけにはゆかない」
男には家庭を守る義務があった。小さな幸福を守り抜く義務が。
男の戦争は形を変えて今も続いている・・・

『日本の青春』
リリシズム溢れる武満徹の音楽に浸り、新珠三千代に女の性を見、1968年の時代の息吹が現在の私たちを撃ってくる。
しょぼくれた初老の男の背中に、戦いを続ける‟青春”がある。
お金を払って観る快感を味わえる傑作だ。


覚書
2017年2月6日 横浜シネマリンにて鑑賞
一昨年は独自の「戦後70年」平和映画祭などを企画上映する骨のある劇場なのだ。








必見! 『殺しが静かにやってくる』

1889年といえば明治22年。
大日本国憲法が発布されたこの年を境に明治時代は前期と後期に分けられる。
明治前期は新政府への不満分子の鎮圧に明け暮れていた時代で、後期は‟富国強兵”の時代だ。
戊辰戦争から東北~函館戦争。不平士族の乱に福島・加波山そして秩父事件。日清・日露戦争。大逆事件。明治は流血の時代でもある。
だが、ここでは明治時代の話題から離れよう。
アメリカではこの年をもって西部開拓時代の終結とされている。

その頃の話であろう。
セルジオ・コルブッチ監督作『殺しが静かにやってくる』(1968)を観た。
傑作の誉れ高いとつとに聞いていたが、なるほど、これは凄い。

~人の命が軽んじられ、人の命が商取引されるところ、賞金稼ぎがやってくる
セルジオ・レオーネ監督作『夕陽のガンマン』(1965)のオープニングのテロップで提示される文句だ。ベテランと駆け出し、二人の賞金稼ぎが共闘してならず者を追い詰めるこの映画はマカロニ・ウェスタンの金字塔と呼ばれているが、たぶん、コルブッチは『夕陽のガンマン』に対するアンチテーゼとして作ったとみられる。

内容は西部開拓時代が終わろうとしている頃、いや、終わったころというべきか。
ユタ州の山間のとある町。地元の判事が山に籠った失業者を‟山賊”とみなして賞金をかけている。その賞金を目当てに賞金稼ぎが群がる。選挙戦に勝ったばかりの次期州知事は公約の懸賞金制度を廃止しようとしている。雪深い山で飢えと寒さに耐えながら失業者達は新知事の恩赦をひたすら待っている。賞金稼ぎは「今のうちに稼げるだけ稼いでおこう」とやっきだ。
それで、最後は山の衆は騙し討ちにあい、一か所に集められて手足を拘束されたうえに、一斉射撃をうけて皆殺しになる。
賞金稼ぎは言う。
「世の中変わったものだ。黒人が白人と賞金の額が同じとは!」
「悪党を成敗するのは愛国者の義務だ」
ジェノサイト!
救いようのないドラマだ。

西部開拓の時代は終わっても、銃にものをいわせて悪を裁く時代は終わらなかった。
セルジオ・コルブッチの演出は粗い。
だが、怒りがひしひしと伝わってくる。
そうとう怒っている。
製作年を思い出していただきたい。1968年だ。世界的に平和運動が沸き上がった年なのだ。
1970年には第一次世界大戦の頃のメキシコを舞台に非暴力革命を目指す大学教授と学生たちに、外国から来た武器商人がからむ『ガンマン大連合』(原題の意味は「立ち上がろう、同志たちよ」)を作っている。
練り上げた演出より、いまやることをやる。
やっつけ仕事の底力を食らえ!

今年は明治149年。

殺しが静かにやってくる・・・
みんな、立ち上がれ!





御礼 江戸っ子繫盛記

昨日の『粉本 江戸っ子繫盛記』にお運び頂いたお客様には実に有難うございます。
無事終了というにはほど遠い活舌の悪さで(今までで最悪だったんじゃないかしら?)、半畳を入れられてもこちらは何も言えない気分で・・・
マナーのいいお客さんだからいいようなものの、冷や汗ものでした。
まあ、それでも反省点が多い分、手直しの方法も見えて、要するに、もっとシンプルに話を進めればいいのだというわけ。
なるほど、この演しものはやる度にシンプルにしていって良くなっていたものなので、今回色気を出してまた余計なセリフを足したのが間違いのもと。
だから、またやります。
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