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阿修羅のこころは迷いのこころ

いけない、いけない。
ライブ『奇妙な誕生会』のことで頭がいっぱいで、(というより、考えることが多方面にわたって)8月1日の『憲法フォークジャンボリー』のネタができてない。
ま、今回はアドリブでお話をするという眼目なわけで、15分のトークショーを考えている。アドリブとはいえ、「奈良興福寺の阿修羅像はなぜ哀しげなまなざしをしているのか?」というタイトルをつけているので、おのずと話の展開は摑んでいるのだ。
いやいや、本当のことを言えば、30年折にふれ話してきたことをあらためて話すに過ぎないのだ。
だが、その「折にふれ」ということが今までどれだけあっただろうか?
話したいのは迷信からの解脱なのだ。もう少しテーマを絞れば「恐れるもの」から自在であれと呼びかけたいのだ。
吉田健一の随筆に『海坊主』という文章がある。
まえにも話したと思うが、もう一度しよう。
銀座の「おか田」で隣に座った見知らぬ男と意気投合して飲む“わたし”。その男の食いっぷり・飲みっぷりに不思議な思いを感じながら店を出て築地方面へ二人で行くと、おとこは隅田川に消えていったというお話。おとこの正体は海坊主だったのではと“わたし”は思うのだが、恐怖感をおぼえるわけでもない。なぜなら海坊主は既に“わたし”にとって飲み友達になっているからだ。
“わたし”は自在なのだ。
迷信というのは、相手の本質を見極めもしないで懼れたり崇めたりすることなのだ。
じつは9月のライブ『奇妙な誕生会』では迷信によるホラーを綴る予定で、そういった意味では8月~9月とリンクしている内容なのだ。
いはゆる「さんまぢ奇譚集」というのは奇想で綴られた話をステージで語るものだが、的を射るにしても真正面から挑むわけではないのでスタンスが判りにくいところがある。
「ベニィちゃんは誤解されることが多いよね」とはその道の先輩Y.Y.女史の弁。彼女もまた誤解されてきたのだろう。いや、記者自身がどれだけ彼女のことを理解しているのだろうか?
判り合えているようで、判り合えていない。
判り合えていないようで、判り合えている。
そうゆうことなのかしら?
こんなことを思うとまた迷いのツボにはまる。
いけない、いけない。
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