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子供ヲ殺スナ

時代劇でのことなのだが。
寺子屋で子供が論語の素読をしている場面を観ると不快な思いをすることがある。
記者は論語を通読したことはないから、無責任な発言だと思う。しかし、論語というのが日本人の道徳観を養ってきたように思われるのだ。
曲亭馬琴記す『南総里見八犬伝』に提示される人としての徳とは、"忠孝悌仁義礼智信”であった。
筆頭は主君に対する"忠義”であり、親に対する"孝行”である。
忠義に関する記者の思いは、まず置いておこう。
問題としたいのは"孝行”なのだ。
もちろん、記者は親に対する孝をないがしろにすべきではない考えである。しかし、親が我が子を所有物として捉えている場合を考えるとき、はたして親は子よりも尊ばれるものかと思うのだ。
親が現状の優遇を優先させて、子供の未来を考えに入れない選択をしたとき、親は子供の命が自分の命の変わり身であり、祖先の命の継承者であることに目をつむっていることに気づいていないか、はたまた気づかぬふりして、わが身可愛さを押し通そうとしているのであろう。
かつて、尊属殺人について記したが、今また考えたい。
我が子のことではない。
将来、命の継承者が、その命を脅かされる事態になることを私たちは望むのであろうか?
目先の優遇に甘えて、その先の代償は先のことにして、次の世代に負担を残すことを選ぶとき、そこに「子は親のためにつくすべし」という尊属意識がはたらいてはいまいか?

親の都合で子供が身売りするケースは戦後なくなったか?
いや、いまでもそれはある。
たとえば借金、いや、遊ぶ金欲しさに年端もゆかない実の娘を売り物にする事例を記者は知っている。
尊属殺人は他の殺人よりも罪が重いと聞く。
だが、実子を所有物として扱う親を尊属といえるのだろうか?
私たちの勝手な都合で、将来、子や孫が身の危険にさらされる事態を招くような下地を作ったとしたら、私たちは未来の殺人犯ということになるのではあるまいか?

かつて、論語が修身教育として体制保持あるいは既得権益保持に利用され、子どもたちの将来の選択肢をせばめた事実を思い起こしてみよう。
私たちが戦うべき相手は限定された政党・政治家ではなく、それを恃む保身者なのだ。「忠義」だとか「孝行」だとかを口にして美徳の上に胡坐をかいて"いい気”になっている、その意識なのだ。
この意識革命の実践方法の一例として記者は映画作家チャップリンのアプローチを挙げたい。

滑稽であることを懼れるな。
滑稽であることに誇りを持て。

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